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バイロイトへの道
ワグネルが生んだプロ音楽家 Vol.6   石川博達さん(1996卒・Hr)


 今回ご紹介するのは、ベルリンドイツオペラの正団員で、2008年、2009年のバイロイト祝祭管弦楽団のメンバーに抜擢されるなど、ドイツで活躍中のホルン奏者・石川博達さん。オフで帰国中の2010年8月31日、ホルン仲間の岸田明(1973卒)、田代千年(1996卒)、加藤真紀子(1997卒)の3名が取材を行いました。


石川ヒロタツさん

デア・リング(以下「デ」):改めて、という感じですが、石川さん、というよりもヒロタツさんがドイツに行って、もうどれくらいになりますか?

石川博達(以下「ヒ」):96年に大学を卒業し、その年の12月に渡独しましたので14年目ということになります。振り返ってみると早いものです。97年の2月にベルリン芸術大学の入試を受け、99年秋からケルンに移り、その後ベルリンとケルンを行ったり来たりしましたが2001年からまたベルリンに住んでいます。ベルリンは第二の故郷といった感じですね・・・。実家の国立や日吉と、感覚がほとんど変わりません。

:音楽との出会い、ホルンとの出会いはどのようなものだったんですか?

:母親がピアノ教師だった関係で、子供の頃2年ほどピアノやソルフェージュをやりました。遊びながら音楽と触れ合うという感じでしたね。中学では吹奏楽をやりたかったのですが、行った公立中学に吹奏楽部がなかったため、友達に誘われてバレーボール部に入りましたが万年ベンチ部員(笑)、塾高の吹奏楽部で楽器を始めました。高校ワグネルの存在は知っていましたが、管楽器の初心者は入れるような状態ではなく、弦楽器は遠い存在でしたので、その年に設立されたブラバンに入りました。最初は楽器を見ただけで「すげ?!」と感激したのを覚えています。

 他の楽器は全然知らなかったので、まずトランペットを始め、高2の2月、17歳の時に中古のホルトン(編注:「ホルン」の間違いではなくメーカー名)の銀のホルンを16万円で買ってホルンに転向しました。母親の勧めもあって最初からレッスンに通いました。トランペットは東響の鈴木先生、ホルンは当時東響首席ホルン奏者の梅田先生でした。このお二人の先生に決めた理由は・・・家が近かったから(笑)。ホルンへの転向は、トランペットで高い音が出ず、周りに比べてあまりにも見劣りがするので、興味があったオーボエかホルンに移っちゃおうかなあ、と思っていたところ、金管をやめるなと高校でも先輩であった平野進さん(1994卒・Tp)に南武線の中で言われてホルンを始めた・・・という経緯があります(笑)。

 それは半分冗談ですが、ブラスを始めて2年、ようやくクラシックも聞くようになり、作曲家の名前も覚え・・・そんな中、たまたま録画していたN響アワーで、松崎さんの吹かれるチャイコフスキー5番の2楽章のホルン・ソロ・・・その音色に参ってしまいホルンに憧れるようになったのです。ベルティーニが指揮でした。この録画はよっぽどよく見ていたらしく、妹も「あのクラリネットの人かっこ良かったよねぇ」とか、いろいろ覚えていました。それまでは市民オケでもトランペットを吹いていたのですが、ホルンに転向したらクビになってしまいました(笑)。


バイロイトへの第一歩?

:ワグネル現役時代のことを聞かせて下さい

:高校の3年間を通じて「オーケストラで演奏してみたい!」という思いは強まるばかりでした。なので初めてオーケストラの中でホルンを演奏できた時は本当に嬉しかったのを覚えています。最初の定期演奏会の乗り番は「マイスタージンガー」前奏曲の3番ホルンと「神々の黄昏」の8番ホルン・・・これはペダルトーンばっかりで・・・

田代:それがバイロイトへの道の始まりだ!(笑)

:入ったばっかりの1年坊主なのにワグナーテューバ(編注:ワグナーが「指環」演奏用に作らせた小型のテューバ。ブルックナー、リヒャルト・シュトラウス等がこの楽器のためのパートを書いている。ホルン吹きが担当、B管とF管があり、B管は高音ホルン奏者、通称“上吹き”、F管は低音ホルン奏者、通称“下吹き”、が演奏する)まで吹くことになりました。演奏会では、池袋の芸術劇場のステージに立つことができ、大感激でした。指揮は山下一史先生でしたね。余談ですが、その演奏会のメインプログラムであったブルックナーの7番のワグナーテューバは4人セットで東京音大の学生の方々がトラに来てくださったのですが、その中の一人と後にベルリンで知り合い、ドイツでの良き戦友となりました。彼は今、デッサウという街の歌劇場で仕事をしています。

:現役時代の最も記憶に残る演奏会は?

:本当にいろいろな曲を演奏しましたので・・・ウーン、全てです。

(編注:ここで田代、加藤と3人で現役時代の全演奏会のプログラムの復唱となる。この3人は何度もセットを組んだことがあるそうで、この日のインタビューは、それは気の合ったものとなりました)

:うーん、本当にいろいろ演奏したものですね。ワグネルでは定期以外にも、金管五重奏を組んで幼稚園とか病院に演奏に行ったり、ホルンパートや金管セクションで演奏会の企画をしました。金管五重奏は、身体の(体重の?)逞しい5人で組んだので「デビーズ」という名前を頂戴しました(笑)。学外では、当時まだあったジュネスに行って・・・「英雄の生涯」なんていう大曲もありましたね。そこで知り合った他大学のホルンの人たちとホルンアンサンブルや木管アンサンブルの演奏会をしたり、土日は飛び回っていました。新響にも入り、卒業後もドイツに行くまでそこで演奏していました。とにかくワグネル時代にはたくさんの曲を演奏したので、今、それらの曲を演奏しながら当時を懐かしむということが良くあります。


サラリーマンから、プロ・ホルン奏者へ

:卒業後、一時サラリーマンをやっていたとか?

:三和銀行の子会社の三和システム開発にSEとして入社しました。情報処理2種の資格を持っています。

:プロを目指したきっかけは何ですか?

:ワグネルでも新響でも楽しく演奏していましたが、そんな中で「本場のオケで本場の音楽に触れてみたい!」と思うようになったのも事実です。まあ、そう思う人は私一人ではないと思いますが・・・。雑誌等で、ドイツのオケで活躍中の日本人の記事を、憧憬を覚えながら暗記するまで読んだりしていました。が、プロになるというつもりはなかったのです。

 そんな中、卒業した年の10月にベルリンフィルが来日しました。そのときは憧れのホルン奏者と写真を一緒に撮って、あわよくばレッスンなんかもしてもらって、本場の空気に少しでも触れられたら・・・とすっかりミーハーで退社後楽屋通いをしていましたが、結局誰にも会えませんでした。それで石川惠美さん(1996卒・Tp)と同期だったことから、父上の石川嘉一先輩(1956卒・Vc)に話してみたところ、当時首席ホルンだったゲルト・ザイフェルト氏に連絡を取って下さりました。

 彼はザイフェルトと、やはりベルリンフィルのホルニストであったマンフレート・クリアー氏と交友があったのです・・・ワグネルの層の厚さを実感しました。それでホテルのザイフェルトの部屋に行って、惠美さんに通訳してもらいながらホルンを吹いたところ、自分のクラスに空きがあるのでベルリンに来ないか、と誘われたのがきっかけです。夢を見ているような気分でした。当時「ロング・バケーション」という小説(ドラマ?)が流行っていて、会社の人とか「ウチの会社にロンバケの後輩がいるの!」なんて言ってましたよ(笑)。「ロング・バケーション」なんて、今の若い人たちは知らないでしょうけどね(笑)。

(1996年10月)
憧れのザイフェルトさんとホテルの部屋で記念撮影



ザイフェルトによろしく

:退職するとき、周りから反対されませんでしたか?

:副部長に「あやふやな言葉にのって会社を辞めてはいけない。部長と話すまで良く考え直しなさい」と言われましたが、この部長が音楽好きな方で、「ザイフェルト!ベルリンフィルの?ああ知っとる知っとる!彼なら大丈夫や、よろしく伝えてな」と賛成してくれたんです(爆笑)。最後は壮行会までやってくれました。96年の11月いっぱいで退職しましたので、12月のボーナスは貰い損ないましたケド(苦笑)。

 幸い、「外国を見ておくのはいいことだ、モノにならなかったら30までに帰ってくれば、やり直しもきくだろう」と、両親も、金銭的な援助も含めて応援してくれました。このことには、本当に感謝してもしきれない気持ちです。

:ベルリンドイツオペラに職が決まった時はご両親、嬉しかったでしょうね。

:親族一同、心から喜んでくれました。その後両親と妹がベルリンに来たとき、毎晩オペラ通いをしてくれて・・・毎晩最前列でピットの写真を撮りまくるのには困りましたが(笑)。


留学生活

:ドイツでの学生生活はどうでしたか?

:学生生活に入る前ですが、着いてから入試までザイフェルトに徹底的にしごかれました。プロから見たら、当時の私は全くの初心者ですので、当たり前ですが、よくあそこまで面倒を見てくださったものだと思います。音大を卒業してから留学される方々はプロフェッショナルなレッスンを受けてきているし、加えて、楽器が違っても友達や知り合いは当地に何人かはいるもので、そのツテをたどって来る方が多い中、入試までの2ヶ月間、寒くて暗?いドイツの冬で、知り合いもおらず全く一人で、言葉もわからず・・・ほんとうに辛い思いをしました。クリスマスの時期は学校も店も閉まるので練習にも行けず、外はマイナス20℃という中、何日も誰とも会えずに一人で一日中何言ってるかさっぱりわからないラジオを聞いていた時の寂しさ・・・今でもありありと覚えています。えらい遠くに来てしまったなあ、って。当時は国際電話なんてそうかけられる値段ではありませんでしたから。それで散歩に出たら20分くらいで凍傷になりかけたりして(苦笑)。

 入試直前に、ザイフェルトがハンブルクの北ドイツ放送響にエキストラに行くというので、ハンブルクの彼の家で徒弟のように、炊事・掃除をしながらレッスンを受けるということになりました。ギュンター・ヴァント指揮の未完成とグレート、というプログラムで、柱の後ろでオケも満足に見えないような場所で聞きましたが、もの凄い演奏で・・・自分が今までやっていた音楽との差をはっきりと見せつけられ、「ドイツのオケに入りたい!」という思いをますます強くしました。いや本当に凄い演奏で、今でもはっきりと覚えています。序奏のヴィオラとチェロのピッチカートからして、背筋がぞくぞくしましたもの。10年後にこのオケにトラに行けた時はものすごく嬉しかったのを覚えています。

 入学した大学はベルリン芸術大学で、ザイフェルトはそこの教授でした。入試はひどい演奏でしたが先生がゴリ押ししてくれたおかげで、入学を許されました。この入試演奏の悪夢はその後長く自分の中に残りましたが、そのせいで上達したい!という思いも強くなり、結果的には良かったかもしれません。ですが、入試までにストレスで10キロ以上痩せました。

 学生生活は、音楽関係の授業を受ける以外は練習室に住んでいたようなものです。練習後のビールはドイツ語の勉強には良かったですよ!トランペットのドイツ人に連れられて学校の近くのKneipe(飲み屋)に行き、ドイツ語もわからないのに、はいはい言ってたらどんどんビールが出てきて、無茶苦茶酔っぱらったりしましたが、そういう状態になると恥ずかしさがなくなって何かしら喋るようになるので、上達にはもってこいです。これはドイツで行った語学学校の先生も言っていました(笑)。いやほんと、冗談でなく。

(写真は本文とは関係ありません)
2009年8月、バイロイトの居酒屋で開かれた誰かの誕生日の集まりで
「変な並び順ですが私が1番を吹いているわけではありません。たしか」だそうです



:ドイツ語は難しそうですが・・・。

:最初は苦労しました。私は、日本でレッスンを受けていた芸大の守山先生に「ドイツに行ったら日本人とはなるべく関わるな」と言われていたので、なるべくドイツ人と一緒にいるようにしていましたが・・・やっぱりついつい日本語の環境を求めてしまっていましたね。ケルンに行った頃から、けじめがつけられるようになったように思いますが。でも、せっかくドイツに来ても日本人ばかりで集まってしまい、ドイツ人の友達もできず、言葉も話せるようにならず、ひいてはそのために仕事へつながらなくなってしまうというケースは結構多いのです。まあ、あんまりにも言葉が違うので、しょうがないと言えばしょうがないというところもあるのですが・・・。

:仕事につながらない、と言うのは?

:ドイツのプロオケでは、オーディションと試用期間で「この人とこの先何十年も一緒に演奏できるか、一緒に生きていけるか」という人間性の部分を非常に重視します。もちろん演奏もですけどね。ですので、違う文化の下で育ってきている外国人、特にアジア人にはハードルが高いと言えます。ドイツ語という言葉は簡単とは言えませんし、ヨーロッパでは、自分の考えを率直に述べることができなければ一人前の人間として扱ってくれません。職場での人間関係は非常に重要ですので、意思の疎通ができない人は、いくら演奏能力が高くても「同僚」には欲しくない、ということです。謙遜や、はっきり物を言わないことが日本では美徳とされますが、ヨーロッパでは「自分の意志がない」と取られ、子供のように扱われるなど、文化的に全く違うお国柄ですから。

 特に“No”と言えるようになるまでは、相当苦労しました。学生のレベルでも、言葉ができなくても話しかけてくる外国人は友達として一緒に仕事に誘ってくれたり、そこで知り合った人からまたツテができ、そこからまた輪が広がり・・・こうして小さなことが一つ一つ、その後の自分に影響を与えているのを見ると、驚くばかりです。自分ばかりでなく、周りを見回してみると、みんなそうですね。本当に驚くばかりです。

:外国に行ったら飲みに行くのが修行になるということですね(笑)。学生の頃は仕事もされていたんですか?

:初仕事は、ベルリンRIAS放送局のユースオーケストラで「くるみ割り人形」他を演奏し、200マルク頂きました。これがホルンで稼いだ最初のお金・・・感慨深いものがありました。留学して最初の1年半ほどはそんなに仕事もなく、月700マルクくらい、5?6万円くらいで生活していましたが、そのうち仕事もだんだん入るようになって、どうにか仕送りなしでも生活できるようになりました。2年目の半ばも過ぎた頃、研修生(Praktikum)のオーディションを一つ二つ受けてみましたが、現実は厳しい・・・。 ですが、その少ないオーディションの経験を通じて、自分に足りない「なにか」を痛感したということは言えます。そんな中、99年3月にマインツで、ドイツホルン教師の第一人者、エーリッヒ・ペンツェル教授の講習会があり、参加してレッスンを受けることができました。ペンツェルはベルリンフィル・ソロホルンのシュテファン・ドールや 現ベルリン音楽大学教授のノイネッカーをはじめ、その教え子がドイツ中のオーケストラに何人いるか多すぎてわからない・・・というもの凄い先生です。

 講習会の指導は私には感動的でした。ペンツェルは私の演奏を気に入ってくれたようだったので、講習会後、私はペンツェルに個人的に連絡を取り、入試のことを電話で相談したのですが、そのときペンツェルに“Ach, der Japaner !!(ああ、あの日本人!)”と言われてしまいました(笑)。その後も学校を出るまで、日本人の私の名前は先生には難しかったようです。いろいろありましたが、入試も無事通ってケルン音楽大学の彼のクラスに入学することができました。私は、ペンツェル最後の生徒の一人として師事する事ができて、本当にラッキーでした。先生は当時69歳で、私の受けた入試がペンツェルの最後の入試になってしまったからです。

(2004年10月)
ペンツェル先生と


プロオケの舞台へ

:ケルンでの生活はいかがでしたか?

:99年の10月からペンツェルの生徒となり、しょっちゅう行われるオーディションのトレーニングとおさらい会を通じて、クラスの仲間とも仲良くなり、結構すぐに馴染むことができました。レッスンは非常に厳しかったですが、本当に素晴らしい内容でした。そして、直後の2000年2月にベルリン放送交響楽団の研修生のオーディションに受かり、ケルンとベルリンを往復する生活となりました。リムスキー=コルサコフの「イタリア奇想曲」がプロオケで吹いた最初の曲でした。最初の練習は1時間弱くらいだったかな?その後、集中しすぎてぶっ倒れるくらい疲れたのを覚えています。外国人である私をメンバーは快く受け入れてくれ、2000年秋にはベルリン放送響のアジアツアーに4番ホルン兼日本語通訳として一緒に連れてきてもらうことができました(笑)。


謎のドイツ人、Heinz Steinbach

:そのベルリン放送響のアジアツアーの時、同僚から「最近オーディションの調子はどうだい?」と聞かれました。ドイツではオーディションは招待制です。履歴書を送って、オケ側が聞きたい人をオーディションに「招待」するわけです。ですので、外国人はオーディションに呼ばれにくいというのが現実です。ペンツェルがいろいろ電話をしてくれたりしていましたが、外国人である私にもオーディションへの招待状は、ドイツ人に比べたら1/3くらいしか来ませんでした。そのことを言うと「そうか、じゃあドイツ語の名前を付けてやる。ヒロタツは・・・Hで始まってZで終わるから・・・Heinz(ハインツ)!(石川注:ヒロタツは、ドイツ語だとHirotazと聞こえるようです)石川ってドイツ語に訳せないの?えっ、Steinbach(シュタインバッハ)?Heinz Steinbach、東京生まれのドイツ人、写真は送るな、国籍も書くな、これで完璧だ!」(笑)。

:ハハハ。ところで、そのドイツ語の名前は役に立ちましたか?

:結局、Heinz Steinbachの名前では応募しませんでした(笑)。それでも、ベルリン放送響の同僚が話をしてくれたおかげで、2001年3月にベルリンドイツオペラの1年間の契約団員のオーディションに呼んでもらうことができ、幸運にもこれに受かりました。ですが、外国人にこのような期限付きの労働ビザはなかなか出してもらえず、ここでも外国人であることの苦汁をなめることとなりました。それでもなんとか仕事を始めることができ、初めてのオペラハウスで不慣れなオペラを演奏することになりました。高齢の同僚には私の名前は発音が難しかったようでしたので、そんな時は“ハインツ”で覚えていただくことにしました。・・・そういえば、ドイツオペラに入る前から知り合いだったドイツ人には“ヒロ”と呼ばれ、入団後に知り合った人には“ハインツ”と呼ばれているかも(笑)。

 その後2002年の誕生日の1日後に、今度はベルリンドイツオペラの正団員のオーディションを受け、幸運にもそれに通ることができました。その誕生日は、それはそれは暗い誕生日でしたが、一日遅れですごくハッピーなプレゼント。試用期間を経て今は正団員で、契約は2番ホルンとワグナーテューバです。

(2005年?)
ワグナーテューバを吹くヒロタツさん




:そこから本当のプロとしての生活がスタートした訳ですね。ここで少し話題を変えて、金管楽器の演奏に関して教えてください。誰でも壁があって進歩は階段的だと思うのですが、ヒロタツさんの場合はいかがでしたか?

:最初は上手くなりたい一心で、1日10時間位吹いた時期があります。しかしこれだけ吹くと体も心も疲れきってしまい、結果全く音が出なくなりました。つぶれたか、と絶望・・・ちょうど夏休み直前で、その後、夏の2か月は全く吹く気がせず、楽器に触りもしませんでした。とりあえずベルリンに戻ったら、ザイフェルトが電話してきて急にレッスンが決まり、破門覚悟でレッスンに行ったら調子が戻っていたんです!スパルタはいけないものですね。当時のピアノの先生に言われました。「向上心や興味の泉は涸れることがある。そういう時は、泉がまた水をたたえるまでなすがままにすべきだ」と。

 ちなみに、練習量という点では、ピアノとかヴァイオリンであれば相当長時間練習できるようですが、金管は口の周りの筋肉の強さから言って1日3〜4時間が限度で、加えてペンツェルは週に1日は休みの日を作りなさいと言っていました。

:ペンツェル先生には相当影響を受けたのですね。

:色々な先生のレッスンを受けましたが、ペンツェルと出会え、先生に気に入っていただけたのは私にはとても幸運なことでした。ケルンの彼のクラスのレベルは非常に高く、クラス内は対抗意識と仲間意識がとてもバランスよく取れていました。すでにオケに入団されている方々もオーディションのトレーニングに来るので、「ああこれくらい吹ければこれくらいのオーケストラに入れるのか」という励みにもなりました。

(2004年10月)
ペンツェル先生を囲んで
ベルリンドイツオペラの同僚たちと


 ザイフェルトもよく言っていましたが、ホルンで一番美しいのは音です。ペンツェルにも音色のことでは散々注意されました。曲を吹けるようになるというのは大切なことですが、実際にオーケストラの中で演奏していると、ホルンは伸ばしている音が非常に多いですよね。これを楽しめるか、楽しめないかということが非常に重要です。ロングトーンや、一見簡単に見えるカンタービレなフレーズを吹いて、自分の出している音が本当に素晴らしいと思えるか。ザイフェルトも「音を聞けばその人の能力がわかる」と言っていましたが、オケに入って何年も経って、ようやくそのことが少しずつわかってきた気がします。

 自分で吹くことはありませんが、そのためウィンナホルン(編注:ウィーンを中心にオーストリアで使われる旧式のホルン)には強い憧れがあります。一時期借りて練習してみたことがありますが、演奏は、それはそれは難しく、これを職業にしたいとは思わなかったですね(笑)。でも、音色を磨くという点では現代のダブルホルンが失ってしまったものをたくさん備えています。音色というのは、最終的には自分の耳ですから。そうだ、また借りてみようかな(笑)。


オーディションはスタートだった

:ドイツでの学生時代は、オーディションに受かることがゴールだと思っていましたが、実はベルリンドイツオペラのオーディションに受かったのが、今思うと本当の意味でのスタートだったと思います。日常生活との兼ね合い、モチベーションの維持と演奏能力の維持、これらが複雑に絡み合って、演奏は常に試行錯誤です。「現時点」に留まり続けるということは無意味であり不可能なことですので、変わり続ける自分とどう付き合っていくか、というのは大変興味深くもあり、大変なことでもあります。具体的に言えば、コンディションは変わり続けるものですから、一度良い演奏ができたからといって次からいつもそれくらいの演奏ができるわけではないのです。この辺、スポーツ選手と一緒ですね。その時想像できなくても、それより良い演奏ができることもあったり、同じ人とは思えないくらいひどい演奏になってしまったり・・・。

 私は・・・日本の受験勉強的にがむしゃらに練習してしまう質だったので、無理やりなんとかそのパッセージなりエチュードが吹けるよう、練習してしまうというところがありました。スポーツと同じで、「無理やり」はやっぱり良くないんです。若い時はそれでもいいけれど、加齢によって無理が利かなくなってきて崩れることがあります。私の場合は頑張りすぎて、体がホルンの演奏を「拒否する」という感覚まで発展してしまったことがあります。現在は、体に逆らわない演奏、メンタルと身体とのバランスを取ることについて研究中です。イメージやメンタルな部分の重要性というのは、年を取るにつれてわかってくるものなのかもしれませんね。公演の時はやっぱり「吹きたい!」と思って吹くことが良い演奏につながるわけですし、でも毎回そう思い通りにもいかなかったりして。逆に「今日は吹く気がしないなあ」という時に練習すると、却って調子が悪くなったりします。


ベルリンドイツオペラの生活

:では、ベルリンドイツオペラの話題に戻りましょう。オペラ座の団員の生活というものを教えていただけますか?

:公演は、普通の曲は大体19:30〜22:30、ワグナーやシュトラウスの長いものでは17:00〜23:00なんていうのもありますので、生活は自然夜型になります。午前中のリハーサルはオケのみの場合2時間半、舞台稽古は3時間です。これはドイツのどこのオペラハウスでも一緒なようです。午前中のリハはその日の演目のリハーサルですか?と良く聞かれますが、初公演の2?3日前のゲネラルプローベ、舞台総稽古のことですが、これが終わった後にその曲のリハーサルがあることはほとんどありません。ですので、午前中のリハーサル、というのは、ほぼ夜の公演の曲と全く違う曲です。忙しい日は、午前中のリハーサルが終わって、お昼ご飯を食べ、ちょっと何か用事を足してから公演のため少し横になったら、もう夜の本番の時間です。

 サラリーマンは土日が休みですが、オペラはシーズン中ずっと続くので、余程オペラと音楽/ホルン好きでなければメゲます。1?2日休みがあっても、次に来る曲のことを考えて練習しますし、基礎的なことは休みの日でないと練習できなかったりしますから。そういうことを考えると、週に1日休みを取れ、というペンツェルの言葉を守るのはなかなか難しい。前にも言いましたが、精神的な面でも「今晩この曲だ?嬉しい!わくわく」という風にうまく持っていければいいんですが、毎晩毎晩違う曲の本番が続くと、「うへぇ?・・・」現実はなかなか大変だったりします。全く音が出なくなったときにピアノの先生に言われたことは、実は本当に大切なことだったんだと、後から気付きました。泉が涸れないように、きちんと手入れをすること。言葉で言うのは簡単なのですが・・・。

(2007年2月)
ベルリンドイツオペラの「舞台裏ツアー音楽付き(みたいなの)」でホルンオクテットを演奏


:これからの予定は?

:まもなくシーズンが始まります。ドイツに帰ったらすぐ、リヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」の稽古が始まり、これはさっき話したワグナーテューバを吹きます。並行してシンフォニーコンサート・・・その先はまだよく知りません(笑)。シーズンの終わりになると、稽古がなくてひたすら本番の毎日になります。演奏経験のあるオペラは良いですが、それでも「指輪」やシュトラウスのオペラの時などは大変ですね、みんなうまく休みを取りながら練習しています。もっとも、大変な曲は楽器ごとに違うもので、ヴァイオリンは「フィガロ」のほうが「神々の黄昏」よりきつい、という話を聞いたことがあります。

:レパートリーの修得には何年くらい?

:オペラハウスでレパートリーが一周するのに約3年から5年かかるといいます。最初の数年は皆、苦労するようですね。ベルリンドイツオペラで最初に吹いた曲は「魔笛」でしたが、稽古もなくぶっつけ本番。オペラのレパートリーでも、自分は吹いたことがないような曲は、練習させてもらえるようにローテーションを組んだりします。まあそれでもいきなり本番ということはありますが、初見演奏は、経験を積めば勘どころが分かるようになってくるものかもしれません。一人でさらうのとオケで吹くのは違いますし、知っている曲でも毎回満足できる演奏をするには基礎が出来ていることが大事です。ベルリンフィルの金管の人たちが、ロングトーンやとてもゆ〜っくりとした音階練習ばっかりやっているのには、やっぱり理由があるのです。

:思い出の演奏会などはありますか?

:そうですね。演奏会では、オーディション直前にティーレマンが振ったブルックナーの8番、ベルリン放送響の東京公演、フリューベック・デ・ブルゴスのブラームス1番などは思い出深いです。ですが、オペラにはシンフォニーオーケストラではお目にかかれない素晴らしい曲がたくさんあります。プッチーニなんて本当に素敵で大好きなんですが、オーケストラだけの曲というのはあるのかな?思い出深いのは、ティーレマンのパルジファル、トリスタン、指環、影のない女(R・シュトラウス)、それから今のシェフ、ドナルド・ラニケルスの振った指環は良かったですね!良い演奏の時は、時間の感覚がどんどんなくなっていき、周りとの一体感が増え、ものすごい渦に巻き込まれているような快感、と言ったらいいんでしょうか、それで気付いたら終わっている。言葉で説明できないんですが、これこそが音楽!と、これを体験できてほんと、感無量です。


?????
これは古代の楽器でもなんでもなくて、アレキサンダー(編注:ホルンのメーカー名)が
壊れたベル(編注:ラッパの音の出口部分、日本語では「朝顔」)を
プレスでぺしゃんこにしたのをくれたのでそれを吹いているヒロタツさん
結構普通(?)に音が出るそうですが、F管の3番管が使えない(写真参照)ので
“下吹き”向きではない、とか・・・・


バイロイトへ

:それではそろそろバイロイトの話を聞かせて下さい。2008年、2009年と出演されましたね。

:バイロイトに関しては、私より詳しい方がたくさんいらっしゃると思いますので、話すのが恥ずかしいのですが・・・。

:団員は、ワグナー好きの人ばかりですか?

:さあどうなんでしょう?(笑)出演の意図は、各人それぞれ違うのではないでしょうか。放送響にいるホルン吹きにとってはワグナーの楽劇演奏のチャンスですよね。シンフォニーオーケストラにいれば、ワグナーを舞台付きでピットで吹くということはまずないわけですから。オペラにいるホルン吹きは、ワグナーが好きということ以外にも、このオケで吹くのが好きだから、友達と会えるから、自分のキャリアになるから、指揮者が素晴らしいから、などなど、人それぞれ動機はいろいろだと思いますよ。

 個人的には、10週間も一緒に演奏していると、ヴェテランの方々に引っ張られ、奏法が似かよってきて、ある素晴らしいスタイルで演奏するようになるということ、これがホルン奏者と金管奏者をバイロイトに引き寄せる一番の理由だと思います。音色や、ワグナーのパッセージの演奏を聞くと、バイロイトを経験したことがある人かどうかわかります。こんなに大きな音で演奏してもいいのは、特殊なピットを持つ祝祭歌劇場だけでしょうし、たっぷりと息を使って、縮こまらずにガンガン吹くのは、金管奏者に取っては非常に健康なことなのです。もちろん限度がありますけれど。


(2008年7月)
バイロイトでのホルニストたちの合奏
最初の公演の次の日、開幕を祝い、音楽祭の成功を願って開かれる公式のパーティで
いつもホルニストが演奏を披露する
会場は祝祭歌劇場ではなく、バイロイト郊外のお城の庭
譜面台に置いてあるのはミュート?ではなくてビール!
主催が醸造所なのでビール置き付きの特注譜面台だそうです
さすがドイツ!


ビールがよく見えるようにアップにしてみました
中央がヒロタツさん


:バイロイトで最初に吹いた曲はなんでしたか?

:一番最初のリハーサルはマイスタージンガーでしたが・・・そういえばワグネルで初めてオケでホルンを吹いた時の曲もマイスタージンガーでした。パートは違いましたが、不思議な一致があるものですね。08年はマイスタージンガーの3幕、トリスタンの1幕と2幕のバンダ、ラインの黄金、ワルキューレ3幕、ジークフリート1幕、という乗り番でした。宣伝ですが、この年のティーレマンの指環はCDになってナクソス(編注:NAXOS=CDレーベル名)から発売されています。ご興味のある方はぜひどうぞ!14枚組くらいだったかな?(笑)

 ワグナーと言えば、生まれて初めて生で見たオペラが、93年のベルリンドイツオペラの引っ越し公演の「ローエングリン」で、ほぼ10年後にそのオペラハウスに入ったというのも奇遇ですね。

:現在のメンバーは、どこかのオケが中心になっているのですか?昔はライプチヒが中心だったと聞いた事がありますが?

:バイロイトは1876年から、二度の世界大戦による中断を経て公演を続けていますが、初期の公演では、現在そんなに大きくない歌劇場の方々が演奏されていたりします。それは、当時の時代背景として、権力のある王室や諸侯のいるところに良いオーケストラがあったから、という理由があります。現在外国である、ウィーン宮廷歌劇場やアムステルダム・コンセルトヘボウなんていう名前も見た記憶があります。今の様な形になったのは第二次大戦後からです。

 祝祭管弦楽団のモットーは「ドイツのオーケストラにワグナーの演奏の伝統を残す」という事だそうで、今は一つのオケから固まりすぎない様にしていると聞いています。ドイツ・後期ロマン派の伝統的演奏スタイルをドイツ各地のオケに残すというわけです。

:祝祭管弦楽団の規模はどれ位ですか?

:相当大きいと思いますよ。数えたことがないのでわかりませんが。バイロイト音楽祭のホームページをご覧になって下さい(笑)。

:祝祭歌劇場のオケピットはその特殊な構造で有名ですが、写真がありませんね。

:個人的な写真撮影は禁止されています。バイロイト音楽祭のホームページに図入り動画付きで載っていると思いますよ。


バイロイトのオケピットは、Tシャツ、短パン

:オケピットでは服装自由と聞いていますが・・・。

:ピットにもクーラーがありませんので、ものすごく暑い日はTシャツ、短パンにサンダルだったりします。でも、客席の方が暑いと聞いたことがあります。100年以上前の木の椅子をそのまま使っているので、固いし狭いし・・・。指揮者は、演奏中は私服ですが、幕が下りると急いで正装に着替えてからカーテンコールに上がります。


(2009年)
幕間の休憩時間中に祝祭歌劇場の前で平野進さん(1994卒・Tp)と
オケピットでの服装のままのヒロタツさんが胸にぶら下げているのは写真入りの出演者カード


(2009年)
新響のメンバーでもある日高容さん(1982卒・Vn)、奥様の美加さんと
日高さんご夫妻はツアーで音楽祭に来て、出演者名簿にヒロタツさんの名前を見つけてびっくり!
東京経由でヒロタツさんの電話番号を調べ、翌日のお昼にめでたく会うことができたそうです


:奏者から見た場合、バイロイトとベルリンドイツオペラの大きな違いは何ですか?

:バイロイトは演目が一人の作曲家で、やる曲も決まっています。スタイルが一つというのは奏者にとってはありがたいのです。吹く曲とパートはいつも決まっているのでホルンカルテットのセットはいつも同じです。これもありがたい。

:というと?

:ちょっとわかりにくいかもしれませんけれど・・・通常のオペラハウスでは、もちろん例外もありますが、同じ曲を毎回同じメンバーで演奏するということは、仕事量の関係で難しく、同じ曲でも毎回演奏メンバーが違うというのが普通なのです。

:なるほど。毎回、前後左右のメンバーが違うということですね。

:同僚ともよく話すのですが、バイロイトは金管奏者にとって夏の強化合宿、あるいはワークショップや講習会のような面があります。ドイツ中からツワモノが集まって一緒に吹くので非常に勉強になります。

:ヒロタツさんは、バイロイト初の日本人ですか?

:いえ違います。ホルニストでも3人目で、1人目が当時ケルン・ギュルツニッヒ管弦楽団首席だった現読響首席の山岸博さん、2人目がレックリングハウゼンの藤田修作さん、私は3人目です。


ワグネルの皆さんへ

:ヒロタツさんから、オケ三田会員や現役学生に向けて、何かアドバイスをいただけますか。

:楽器と演奏のことでいえば、演奏の上手下手でその人の価値が決まるわけではありません。“Spa? ist Pflicht”“fun is mandatory”、つまり“演奏を楽しむことが義務”と言ってもいいくらい、最も大切なのは楽しむことです。日本語では、音楽とは文字通り音を楽しむと書きます。楽しく演奏することが、自分のためにも、聴衆のためにも、音楽のためにも大切なのです。でも「今ここで楽しめ!」と急に言われても、やってごらんになったらわかると思いますが、それで楽しめるようになれるわけではないのです。どうしても汲々と正しい音を出そうとするだけになってしまう・・・ですので、練習するとき「演奏を楽しむ」練習をするのです。例えば、楽器から素晴らしい音が出てホールに響き、それがお客さんに届いて・・・と想像してみるとか、このフレーズをこうやって吹けたらいいのになあ・・・って歌ってみる、などなど。

 これはちょっと現実的な話ですが、演奏中に本当に自分の音を聞いている人というのは、結構少ないんです。音程やフレーズを聞いている人は多いですが。今度演奏するとき、気にしてみてください。そして、その自分の音を楽しんでいる人っていうのは、もっと少ない。けれど、そういう人は大概すごく楽しんでいる。楽しんで演奏すればするほど、音楽的・技術的な向上、それを自然に望む心につながり、さらに楽しくなっていくのだと思います。

 初心を思い出す事も重要です。とにかく楽器の演奏が楽しくて楽しくてしょうがない・・・こういうふうにずっと音楽と関わっていきたい!という思いがあったはずです。でもこれは実際、様々な人が語っているように、残念ながら簡単に忘れられてしまうのです。

 自分はなぜこれを始めたのか、どうしてこれを続けているのか、それを楽しもうとしているか、実際楽しいか?これは仕事をされているすべての方の、仕事に対するスタンスとしても一考する価値があることだと思います。私の場合は、それがたまたまホルンと音楽なんですが。


おまけ:そば打ちのレッスン???

:音楽から離れている時は、どうやって過ごされているんですか?

:ワグネルを・・・慶應を卒業するとき、当時は追い出しコンパを日吉の生協食堂の2階でやっていました。今もあるのかな、生協食堂?その追いコンのとき後輩から料理の本をプレゼントされ、ドイツに来る時もそれを大切に持ってきました。食べることは大好きでしたが、料理自体は、中学の調理実習で習った事以外、手の込んだことはしたことがありませんでした。ドイツに来てみると、日本で普通に食べられるものがなく、またそういうものが無性に食べたくなるもので・・・初めのうちは炊飯器も持っていませんでしたし。最初は餃子を皮から作り、結構できるもんだ、という変な自信をつけ、それを手掛かりに学生時代は友達と何でもいろいろ作ったものです。

 もちろん本職からはほど遠いですが、ホームパーティの時はドイツ人に寿司を握ったり巻いたりの真似ごともしたりします。ドイツでは魚はあまりありませんが、刺身にできるような、スカンジナビアから送られてくる鮭は丸一匹、もしくは半身で売っていたりするので、必要にかられて魚をさばいたりもするようになりました。

(2007年)
ヒロタツさんが自宅に招いた同僚たちのために握った寿司、すし、スシ・・・
それにしてもお見事!



 ホルン吹きは料理好きとビール・ワイン・ウイスキー好きが多いのですが・・・飲むものと食べるものにうるさい、ということですかね。残念ながら仕事を始めてから、手の込んだ料理はあまりしていません。

 そうでもないかな・・・数年前、どうしてもそばとうどんが食べたくなり、日本に帰国した際に、N響の首席ホルンの樋口さんに、ホルンならぬそば打ちを習いました。昔はちゃんとホルンのレッスンに行っていたんですけれど、今はそば打ちの師匠でもある(笑)。ドイツで手打ち蕎麦なんて、絶対ありませんので。最近しばらく打っていませんが、打ちたてはうまいですよ。いつか年越しそばを自分で打ちたいのですが、いつも大晦日は仕事なもので。・・・そういえば加藤さんがベルリンに遊びに来てくれた時、そば打ちセットを運んできてもらいましたね。コネ鉢とか、おっきいものまで。その際はありがとうございました。

加藤:セットが詰まったトランクが行方不明になり、焦りましたね?。結局数日後に出てきて、めでたしめでたしでしたが。



ヒロタツさん手打ちのそば
こちらもお見事!
おいしそう!

:今年の夏は樋口さんに渓流釣りを習う予定だったのですが・・・残念ながら予定が合わず、持ち越しになってしまいました(笑)。

:渓流釣りのレッスンは次の帰国までお預けですね。

 まだまだ話は尽きないのですが・・・今日は長い時間、ありがとうございました。 (FINE)



 ヒロタツさんの経歴 :1974年東京生まれ。慶應義塾高等学校1年から吹奏楽部でトランペットを始め、3年の時にホルンに転向。大学時代はワグネル・ソサィエティー・オーケストラに所属。ホルンを梅田学、守山光三両氏に師事。96年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業、同年の12月に渡独。ベルリン芸術大学でゲルト・ザイフェルト氏に、後にケルン国立音大でエーリッヒ・ペンツェル氏に師事。2000年ベルリン放送響研修生、2001年ベルリンドイツオペラ契約団員、2002年同団正団員として入団。2008年と2009年にバイロイト音楽祭に出演。




(2010年8月31日)
取材に当ったホルン仲間とヒロタツさん
前列左から、ヒロタツさん、岸田/後列左から、田代、加藤
魚が美味しいお店「海仙楽」(ホテルエクセレント恵比寿B1)にて


ロング・バケーションならぬ、ロング・インタビューを最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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